見極めたい、“後悔”しないためのこだわり粗大ゴミ

この疑問をたまたま会ったなかにし礼さん(作家、作詞家)の前で口にしたら、自作『夜盗』(新潮社刊)を送ってくれた。
戦災孤児を主人公にした魅力的な作品だった。
が、これは小説である。
彼らの実人生はどうなのか。
千差万別にはちがいない。
それにしても、「便りのないのはよい便り」なのか。
そのひとつの例に出会ったのは、ある作文コンテストの審査をした時だった。
全国各地から七〇〇人を超える老若男女の応募があったなかの一麓が、元戦災孤児の筆によるものであった。
だれの助けもなく生き残るために少年が足を踏み入れたのは盗みの道だった。
捕まっては出所を繰り返していた。
刑を終えたある時、屋台で出会った未知の男から「働いてみないか」と誘われた先が新開販売店だった。
住み込みで新聞配達をするうちに、集金の仕事が回ってきた。
集めた(少年にとっては)大金をどうするか店主にたずねたら「精算は明日にしよう、預っておいてくれ」と言われた。
持ち逃げできる絶好の機会である。
が、その夜、少年はふとんのえりを涙で濡らした。
素性のわからぬ自分を信頼して金を預けたままの人がいる……。
「それで人は幸せになるか」そこから別の道が始まった。
やがて小さいながら会社を経営する身となり、愛する家族を持った。
自分の人生は道草を食い続けた、それこそ「草いっぱい」の道であったが、今ふり返って悔いはない、とこの人は言い切っていた。
この作文コンテストのテーマは「みちくさ」だった。
「ゆっくりゆったり道を歩く人生を歩むあなただけの『みちくさ』教えてください」この呼びかけに応じてきた人たちの作文には、大きく分けて二つの流れがあった。
ひとつは、元戦災孤児のように、自分の生きて来た軌跡のなかに道草を見出して、それについて語っている人たちである。
もうひとつは、文字通り道草をして、そこでの発見を綴っている人たちである(最優秀作品はこちらから出た)。
だが、ふとした道草が人生の転機となった、という両者にまたがっている人も少なくなかった。
このコンテストを通して浮かび上がってきたのは、日本人が年を経るにつれ、道草をしなくなっているという事実である。
世の中が気忙しくなり、効率が重んぜられるようになったという「近代化」の時代背景がもちろんある、しかし、「道草をしてはいけませんよ」と親が子どもに言うのは昔からのことである。
その禁忌を犯して寄り道をしたり、大人たちが失った好奇心を充たすために道草をすることに、子どもとしての愉悦があったはずである。
今、子どもたちは道草を食うことを制度的にきびしく制約されている。
予め通学路が指定されており、そこから外れたコースを子どもが歩いた場合は、学校側から親が叱責されるという。
子どもを狙った犯罪が頻発するにつれ、この規制はさらに強まった。
応募作品のなかにも、今現在の道草体験を綴っている子どもの作品はほとんどない。
そういう習慣も冒険心も、やがてこの国の子どもたちから消え失せるかもしれない。
世界中で、こんなに街のなかでも野や山でも子どもが遊んでいる姿が見当たらない国は他にない。
こんなに白日に光がない子どもたちが多い国も他にない(この話については言いたいことが山ほどあるのだが、ここではぐっとこらえることにする)。
ところで、この作文コンテストを主催したのは、やきもので知られる多治見市(岐阜県)である。
なぜ、そんなことをしたかと一言えば、このまちが「スローライフ」をすすめる私たちの仲間であり、コンテストはその「運動推進事業」のひとつだったからだ。
私たちとは、追い追い説明することになるが、「スローライフ・ジャパン」というNPOを起ち上げた者ども(私も理事のひとり)のことである。
グローバル化と―T革命「それで人間(人類)は、今より幸せになれるんでしょうか」私はそのシンポジウムの最後の質問者だった。
かねてから疑問に思い、あまり説得的な答をそれまで得ることができなかった問いを私はそこでも口にしたのだった。
それとは、通信情報技術(IT)の急速な発達とともに進められようとしている「グローバル化」のことである。
大手広告会社が主催し、都内の一流ホテルで開かれたそのシンポジウムは、「グローバル化」の唱道者として世界的ベストセラーを書いたアメリカ人を基調講演者に据え、パネリストにも豪華な顔ぶれが揃っていた。
時代は滑々とそちらの方向に向かっていた。
「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」はかつて広告業界が生んだ名コピーだが、はるか彼方へ忘れ去られていた。
それどころか「そんなに急いで」こそが、この時代の命題となっていた。
人、モノ、カネ、情報、技術、サービスが国境の壁も易々と乗り越えて行き交うのがグローバル化だが、もうひとつの重要な側面はスピードである。
そしてそれを可能にしたのがITということになる。
この大波に乗り遅れてはならないと叱咤する声が巷にあふれた。
脅しの気味すらあった。
そうでなくとも、この国の住人は「大勢」から脱落したり、「時代遅れ」と呼ばれることに弱い。
当時の代表的な〝脅し文句″に「ドッグ・イヤー」というのがあった(今もなくなったわけではないが)。
犬は人間の一年に七歳の年齢を重ねる。
IT革命は激しい変化で進んでおり、かつての一年は七年に匹敵する。
つまり私たちは七倍速の「犬の時代」を生きているのだ―。
しばらくすると、犬では足りず「ねずみの時代」と言い出す人が出てきた。
ねずみは人間の一年に何歳、歳をとるのか知らない私に、だれかが「二〇年」だと教えてくれた。
つまり二〇倍速ということだ。
それで私が連想したのは、子どものころ縁日で見た自ねずみだった。
丸い針金製の輪のなかにいるねずみは足を踏むたびに輪が回り、永久運動とも思える動きを続ける。
「こまねずみのように働く」という表現も日本語にはある。
どちらも私は願い下げにしたい。
犬のことで連想が働くのは「七」という数字のほうである。
学者から神奈川県知事になった長洲一二氏(故人)を私は尊敬していたが、それ以上に会うたびに話が楽しい人だった。
その長洲さんの持論のひとつが「人生七掛け説」だった。
人生五十年と言った昔とちがい、寿命が伸びた今の時代は実年齢の七掛けで考えたほうがよい。
五〇歳の人は三五歳、六〇歳は四二歳、というわけである。
後に学生を教えるようになって、私はこの説に妙な納得をすることになる。
素直でかわいい子たちなのだが、何とも幼い。
二〇歳だと思うと苛立つこともあるが、一四歳だと思えば腹も立たない。
一方では七掛け、他方では七倍速。
寿命が伸びて前よりも「ゆっくりした生」を生き、成熟にもそれだけ時間がかかるようになった一方で、情報技術の習得や使用はすさまじく速くなることで、人間に何が起きるのか。
これは興味深いだけでなく、恐ろしさをふくんでいる大テーマでもある。
『ケータイを持ったサル』(正高信男著、中央公論新社刊)はその点を指摘しているが、利便性の一方で、技術と人間とのギャップはその後もさまざまな問題を生み続けている。
シンポジウムでの私の質問は、犬やねずみを引き合いに出す〝脅迫的言辞″を援用させてもらうと、「人は犬(またはねずみ)になることで幸せになれるのか」と言い換えることもできる。
ねずみは論外だと思うが、何事にも一元論者になれない私は、犬についてはそう簡単ではないと思う。

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